プロレスの豆知識・ネタをご紹介(新日本プロレス Mr.BD)

本日はプロレスの豆知識・ネタをご紹介します。
今回のテーマは新日本プロレス Mr.BDです。

 

今回は後藤達俊選手をご紹介します。コアのプロレスファンの方であれば注目する選手の一人ではないでしょうか?

 

ご存知ない方もいらっしゃると思いますので、

Wikipediaの情報ですが、新日本プロレスまでの来歴を記載します。

 

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来歴[編集]

デビューまで[編集]

名城大学附属高等学校名城大学卒業。学生時代はウエイトリフティングで活躍し、インターカレッジ3位の成績を残す。大学卒業後、日産自動車に入社。1982年8月、アントニオ猪木が名誉会長をつとめる寛水流空手の初代会長水谷征夫の紹介により、26歳で新日本プロレスに入門。1982年12月2日、先輩である山崎一夫を相手に地元愛知県の豊田市体育館でデビュー。

若手時代[編集]

デビュー後の一時期、アントニオ猪木の付き人を務めていた。当時猪木の妻だった倍賞美津子からは「オダンゴちゃん」と呼ばれていた[1]

ヤングライオン時代は橋本真也との激闘で前座を沸かせた。1985年、第1回ヤングライオン杯で決勝に進出するが負傷により欠場(決勝戦小杉俊二 vs 山田恵一。後藤はその試合を無念な表情のスーツ姿で、観客に混じって観戦していた)。そのままNWAミッドアトランティック地区へ遠征し、桜田一男と覆面タッグチーム「ライジング・サンズ」を結成する。同年10月、ランボー・サクラダと改名した桜田とともに凱旋帰国するものの、初戦のタッグマッチでコンガ・ザ・バーバリアンのリフトアップ・スラムによって肩を脱臼し欠場。タッグチームはそのまま自然消滅した。復帰後は再び前座のポジションに戻ってしまう。すでに海外遠征経験があるにもかかわらず翌年の第2回ヤングライオン杯にも出場したが、決勝で山田恵一に敗れて準優勝に終わった。

ヒールターンと反選手会同盟参加[編集]

1987年には越中詩郎が負傷により返上したIWGPジュニアヘビー級王座決定トーナメントにエントリーされ、1回戦で小林邦昭に敗れる。この後もジュニアともヘビーともつかぬ扱いを受け、中堅のポジションに甘んじていた。しかし1989年10月に髪を金色に染めヒール・ターン。同じ中堅のポジションにいたヒロ斎藤保永昇男ブロンド・アウトローズを結成し、本隊と対立。徐々に中堅戦線を湧かせるようになり、『ワールドプロレスリング』でも放映されるようになっていった。ブロンド・アウトローズには後にスーパー・ストロング・マシンが加入する。

1990年6月12日の福岡大会では、バックドロップ馳浩を一時的に心臓停止に追い込んだ。以後、バックドロップは後藤の代名詞となった。

ブロンド・アウトローズは後にレイジング・スタッフと名前を変えるが徐々に勢いが衰え、1993年10月、マシンとの対立により後藤が離脱。レイジング・スタッフは解散となった。後藤はそのまま反選手会同盟に参加。この時、それまでの金髪から眉毛までをも剃り落としたスキンヘッド姿となる。

平成維震軍〜犬軍団[編集]

反選手会同盟平成維震軍と改名した後はメンバーとして活動。眉まで剃り上げるスキンヘッドで一時ブレーク。蝶野正洋長州力にシングル戦で勝利したこともある。越中詩郎らとともにWARにも参戦し、越中小原道由と組んでWAR認定世界6人タッグ王者となった。

平成維震軍解散後、後藤は小原と共闘。後藤と小原は人気絶頂であったヒールユニットnWoジャパンへの加入を目指す。しかし蝶野らに拒否され、背中にスプレーで“犬”の文字を書かれる屈辱も味わうが、後の「査定試合」で加入を認めさせる。しかし蝶野がnWoジャパンのTシャツを後藤と小原に着せようとした瞬間、後藤と小原は蝶野らにバックドロップを見舞って「そんなものは元々いらねーんだよ!」とのマイクアピールを行い、抗争継続となった。そして後藤と小原は「犬軍団」の名前で暴れ回った。

1999年6月27日には小原とともに佐々木健介越中組からIWGPタッグ王座を獲得。維震軍時代のリーダーであった越中をバックドロップで破っての勝利だった。後藤にとって、新日本プロレスで唯一のタイトル獲得となった。控室に戻った際、祝杯用に缶ビールが2本しか差し入れられなかったことに怒った後藤が発した「何だこの2本は!!」はテレビ放映されたこともあり、有名な台詞となった。

TEAM 2000参加〜クレイジー・ドッグス結成[編集]

2000年2月、蝶野が新たに結成したTEAM 2000に後藤と小原は参加する。しかし2002年10月に蝶野が新日本プロレス本隊に復帰したことにより、TEAM 2000は消滅した。

2003年1月4日の東京ドーム大会で、後藤は小原、ヒロ斎藤と「クレイジー・ドッグス」を結成。後に中邑真輔エンセン井上が加わり、魔界倶楽部との抗争が始まった。2月1日の札幌テイセンホールで開かれた「6人タッグ・トーナメント」では中邑、斎藤と組んで優勝した。

魔界倶楽部が解散し、小原とエンセン新日本プロレスに出場しなくなるとクレイジー・ドッグズは自然消滅。2004年に後藤は新日本プロレス本隊へ復帰し、現場責任者に就任する。しかし2005年10月に新日本プロレスへ復帰した長州が現場監督に就任すると対立し、責任者の職を解かれる。その後は蝶野、天山広吉らの反長州勢力に合流した。

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といったプロフィールですが、やはり後藤選手で忘れてはいけないのはバックドロップですね、本日紹介する試合も後藤選手の凄さがでた試合でした。1発のバックドロップであそこまで試合を盛り上げることができるのは後藤選手の最大の魅力でないでしょうか?

 

バックドロップはプロレスでは昔から使われる代表的な技ですが、遍歴がありますね。

昔はおしりを抱えて前に走るスタイルから、鉄人ルーテーズようなヘソで投げるバックドロップなどあります。後藤選手はヘソ+捻りがポイントですね。もちろんヘソのみの時もありますが。

 

ここで是非、ぶんじろうの見どころとしては後藤選手は相手のわき腹から入り、捻りを加えて落とします。これにより馳浩選手が心臓がとまるという事態にもなりました。

捻りを加えるのは長州選手もですが、後藤選手は角度がエグイ!本日紹介するIWGPのタッグの試合で是非ご確認ください。

 

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