プロレスの豆知識・ネタをご紹介(三沢光晴)  

本日はプロレスの豆知識・ネタをご紹介します。
今回のテーマは三沢光晴です。 

三沢選手のイメージは二代目タイガーマスク、、タイガードライバー、エメラルドフロージョン、エルボーなどなど、観客を沸かせる美技を披露する一方、私生活では下ネタが大好きといった、リングとは違ったキャラクターでも有名でしたね。

 

いつもの通り簡単にwiki情報でのご紹介です。

 

<全日本プロレス入門>
高校卒業後の1981年3月27日、全日本プロレスに入団。同年8月21日に浦和競馬場正門前駐車場で行われた越中詩郎戦でデビューした。
入門から5か月でのデビューは全日本プロレス史上最速であった。

<タイガーマスク(2代目)として活躍>
1984年春、三沢は越中詩郎とともにメキシコへ遠征に出た。数か月が経ったある日、三沢は馬場に国際電話で「コーナーポストに飛び乗れるか」と問われ、
飛び乗れると答えたところ帰国するよう命じられた。帰国後、三沢は馬場に2代目タイガーマスクとなるよう命令を受ける。

<超世代軍とプロレス四天王の中心として活躍>
1990年春、天龍源一郎全日本プロレスを退団しSWSへ移籍、複数のプロレスラーが天龍に追随した(SWS騒動)。この騒動により、全日本プロレスは天龍対鶴田という当時の黄金カードを失うことになった。騒動の最中の5月14日、三沢は試合中にタイガーマスクのマスクを脱ぎ、三沢光晴に戻ると同時にポスト天龍に名乗りを挙げた。
三沢は川田利明、小橋健太らとともに超世代軍を結成。1990年6月8日に「全日の『強さ』の象徴だった」ジャンボ鶴田とのシングルマッチで勝利を収め、1992年8月22日にはスタン・ハンセンを破って三冠ヘビー級王座を獲得するなど、
超世代軍の中心レスラーとして活躍した。超世代軍とジャンボ鶴田を中心とする鶴田軍との世代抗争は全日本プロレスの新たな名物カードとなった。

1992年7月にジャンボ鶴田が内臓疾患により長期休養を余儀なくされたことにより超世代軍と鶴田軍の抗争は終わりを告げ、
同時に三沢は全日本プロレスの実質的なエースとなった。超世代軍の活動は1993年に川田が離脱したことで区切りを迎え(正式に解散したのは1998年)、
それ以降は小橋・川田・田上明とともにプロレス四天王(後に秋山準が加わり「五強」と呼ばれた)の一人として全日本プロレスの中心を担った。
三沢は1992年8月から1999年10月にかけて三冠統一ヘビー級王座を5度獲得、21度防衛。1994年3月5日には全日本プロレスの象徴的存在であった
ジャイアント馬場からタッグマッチでフォール勝ちし、名実ともに同団体を代表するレスラーとなった。

超世代軍が結成された当時、馬場は凶器攻撃、流血、リングアウト・反則・ギブアップによる決着のない、3カウントによってのみ決着するプロレスを理想としていた。


後にジャイアント馬場の死後、全日本プロレス社長→NOAHの旗揚げとキャリアを築いていきました。

 

三沢選手を今回一回で語るのは難しいので、本日は全日本プロレスまでとさせていただきました。

さて、ここからがいつものように私の個人的な視点で書き綴ってみます。

冒頭に記載をした三沢選手といえば数々の技を披露されてきましたが、一方で受身の天才でもありました。ジャーマンスープレックスを受身をとって、すぐさまカウンターエルボーを打つタイミングはまさに美技です。ぜひ、検索をしてみてください!!

 

そして、今回ご紹介したいのはタイガードライバーです。

えっ??知っているよと思った方もいると思いますが、私が紹介したいはエプロンから

の断崖式タイガードライバーです。1998年10月の小橋選手と試合での印象が非常に大きいです。馬場さんの激しいプロレス、四天王プロレスを象徴しています。タイガードライバー91が決め技にならない状況でだしたあの技はインパクトが強すぎました。それを受けて戦い続けた小橋選手もかなりですが。。

 

話をまとめさせていただけますと、ジャンボ鶴田選手から世代交代をして、そこからエースとして活躍した三沢選手はやはり馬場イズムを受け継いでいたのではないでしょうか?そして前にも書きましたが、やはり一言!

 

四天王プロレスだけは真似してはいけません!!