プロレスの豆知識・ネタをご紹介(長州力)

本日はプロレスの豆知識・ネタをご紹介します。
今回のテーマは長州力です。

 

長州選手といえば現在はテレビ番組などでも出演多数で、滑舌をいじられるなどのキャラクターで見られるケースがございますが、プロレスを見ている立場からすると、これは長州選手ではない・・・と感じてしまいます。

 

長州選手といえば、専修大学→オリンピック→新日本プロレスジャパンプロレス全日本プロレス新日本プロレスなど色々な経歴をもっており、名言も様々ございます。

 

私の主観のご紹介の前に毎度おなじみのwiki情報のご紹介です。

今回は要約でご紹介します。

 

<生い立ち>
1951年12月3日、山口県徳山市で四人兄弟の末っ子として生まれる、
山口県桜ケ丘高校のレスリング部に特待生として進学。レスリングに打ち込み、3年生の1969年にはインターハイの73kg級で準優勝、長崎国体のフリースタイル75kg以上級で優勝する。アマレス強豪校の専修大学商学部に特待生として入学する。

 

<オリンピック出場とプロレス入り>
専修大学レスリング部では大学3年の1972年、在日大韓体育会を介してミュンヘンオリンピック韓国レスリング代表に選ばれる。
大学4年でキャプテンとなり、1973年の全日本選手権ではフリースタイルとグレコローマンの100kg級で優勝した。新日本プロレス新間寿営業本部長にスカウトされ、
1974年に新日本プロレスへ入団。ミュンヘン五輪グレコローマン100kg以上級に出場し、1年前に全日本プロレス入りした鶴田友美と同じく「アマレスエリートのプロレス転向」という道を辿ることになる。

<雌伏の時代>
1974年8月8日、日大講堂でのエル・グレコ戦でデビューを果たし、サソリ固めで勝利を飾る。
その後すぐに海外武者修行に出され、ヨーロッパや北米を転戦。デビューから間もない1974年秋には、当時の西ドイツにてローラン・ボックやミル・マスカラスとも対戦(いずれも敗退)。
1975年からはアメリカ合衆国本土に入り、ヒロ・マツダが本拠地としていたNWAフロリダ地区で活動。ダニー・ホッジ、クリス・マルコフ、バロン・シクルナ、ボブ・アームストロング、
若手時代のボブ・バックランドやランディ・サベージ(ザ・スパイダー)などと対戦。

デビュー時のリングネームは日本名の吉田光雄であったが、海外武者修行から帰国後の1977年4月より、故郷長門国の別名である長州にちなんで長州力と改名。
改名後もアントニオ猪木のパートナーに起用されてTV中継試合のメインイベントに出場するなど、活躍の機会は与えられていたが、華やかさに欠け無骨な長州は人気が上がらず、
精悍で女性や子供受けするジュニアヘビー級藤波辰巳木村健吾の後塵を拝す。


<「かませ犬発言」から「革命戦士」へ>
ワールドプロレスリング』(テレビ朝日)の視聴率が20%を超えるという「新日ブーム」で沸く1982年に入ると、藤波辰巳との抗争劇で一躍ブレイク。
メキシコ遠征から帰国後、それまでの短髪パーマからストレートの長髪にイメージチェンジした長州は「革命戦士」のニックネームとともに時代の寵児となる。

ブレイクの発端となったのは「藤波、俺はお前の噛ませ犬じゃない」という発言だが、長州が実際に発した言葉は「なんで(入場の際に)
オレ(長州)がオマエ(藤波)の前を歩かなきゃいけないんだ、なんで(メキシコで当時実力No.1のカネックを破り、UWA世界ヘビー級王座を奪取してきた)
オレ(長州)がオマエ(藤波)の前にコールされなきゃいけないんだ」であった。格下が先に入場し先にリングアナウンサーに紹介されるのが業界の慣わしである。

<ジャパンプロレス旗揚げ - 全日本プロレス参戦>
1984年9月21日をもって長州ら維新軍は新日本プロレスを退社。その後、ジャパンプロレスを旗揚げし、維新軍に所属するレスラーを率いて戦場を全日本プロレスへと移すという新日本に対して最初の造反を行う。

1987年2月から全日本のシリーズを欠場し、そのまま新日本に復帰。契約問題で馬場および日本テレビと揉め大騒動に発展した。これによりジャパンプロレスは崩壊。
また、長州のスタイルに強い影響を受けた天龍は、長州離脱後の全日本マットで激しいプロレスを展開し、後の四天王プロレスのスタイルの礎を築いた。

<新日本プロレス復帰 - 現場監督就任>
1986年ごろからインタビューやマイクで藤波の名を口にし、古巣へのカムバックを実現して次第にアントニオ猪木藤波辰巳などと抗争が始まった。


長州は1988年7月にアントニオ猪木から念願のフォール勝ちを奪い、名実共に新日本マットの中心となった。そして現場監督として猪木が一線を退いた後の団体を取り仕切り、
因縁浅からぬUWFインターナショナルとの抗争を主導し、平和のための平壌国際体育・文化祝典で生じた赤字を埋めることに成功する。しかし、その後は愛弟子の佐々木健介
他団体の天龍源一郎を重用する等の私情優先とも取れる経営も見られ西村修などの一部新日選手に長州を嫌う傾向が出始める。

1998年1月4日の東京ドーム大会で引退。引退試合藤田和之吉江豊高岩竜一飯塚高史獣神サンダー・ライガーの5人掛けであった。
(藤田、吉江、高岩、ライガーに勝利。飯塚に敗北。)引退後、長州力のリングネームは愛弟子の佐々木健介が襲名するという話が持ち上がるも実現せず[22]、
引退前は現役復帰を完全否定していたにもかかわらず大仁田厚の参戦・挑発に乗る形で2000年7月に現役復帰した。

 

以降のWJなどございますが、本日はここまでの紹介とさせていただきます。

 

いつもながらですが、私が思う長州選手と名試合についてご紹介したいと思います。

先にも記載しましたが、長州選手は非常に名言の多い選手でもあります。やはり注目すべきは、噛ませ犬発言ではないでしょうか?

これの発言を聞くといつも頭に?が浮かびます。

藤波選手といえば中学卒業後、就職→新日本プロレス入門→武者修行・ドラゴンブームなどを経験しております。まさにコツコツを地道にスター街道を駆け上がった選手なのでは?と思っております。一方で長州選手は大学入学→オリンピック出場→新日本プロレス入団→武者修行といったプロレスで言えばスター街道を進んでいるように感じます。その選手が、地道な道を歩んできた選手にむけてのかませ犬発言をするのは??と思っています。私が思うに長州選手は非常にマーケティングがうまい選手なのでは?とも思ってしまいます。もちろんがガチなプロレスラーでもありますが、合宿はサイパンでトレーニングをして黒くなって帰ってくるなど、行動一つ一つがインパクトがあるため、どんな時代でも実力含めて輝いていたのではと感じます。

 

そして長州選手の注目すべき試合は私は大仁田選手との有刺鉄線電流爆破の試合と思っています。この試合は引退した長州選手の復帰戦でもあり、入場ではパワーホール+歓声が横浜アリーナを包み込みました。

結果は長州選手のサソリ固めでレフェリーストップとなりました。

さて、私がこの試合を注目した理由ですが、それは長州選手のストロングスタイルのプロレスです。長州選手はガチガチのプロレスラーです。試合スタイルも安生選手との試合でもプロレススタイルを貫いていました。今回の試合でも同様です。大仁田選手の主戦場の有刺鉄線マッチであっても自分のスタイルを崩さずに試合を展開、プロレスラーならではのロープワークを有刺鉄線でも関係なく使ってラリアットを繰り出すなど、非常に長州選手の魅力がでた試合だと感じました。

ネット上なども流れている試合でもありますので是非お時間ある際にご覧くださいませ。