プロレスの豆知識・ネタをご紹介(マサ齋藤~解説編~)

本日はプロレスの豆知識・ネタをご紹介します。
今回のテーマはマサ齋藤~解説編~です。

 

今回は前回に続きマサ齋藤選手をご紹介します。今回は解説編を記載させていただきます。

 

ワールドプロレスリングをつけると辻アナウンサーの実況の横でマサ齋藤選手解説をしていたのを覚えいています。そのおかげでプロレスを楽しんでみていたのをおぼえています。

マサ齋藤選手といえば、信条は「Go for broke」(当たって砕けろ)で試合内容もパワフルに展開をしていましたが、一方の解説では厳しくも、コミカルな独自な解説をしていました。

 

今回はマサ齋藤選手の解説の名言(迷言?)をご紹介したいと思います。

外人選手とかかわりの深いところが解説にもでています

 

辻アナ「ということは、マサさん!この二人、かなり辛辣な関係ってことですね?」
マサ「しんらつってなんだ?」

辻「このバックドロップは受身が取れない!!!!」
マサ「取ってます取ってます」

辻「今日のベイダ-はどうですか、マサさん!」
マサ「ああ、ホワイトですか」

 

④ ※外国人選手に詳しすぎです!

田畑「さぁ、その、ほとんど経歴不詳ということで、我々の情報ではこのグレートOZという選手まだその実力の程は分からないわけですが。」
マサ「まあ彼はね、プロのバスケットボールの出身なんですよね。
まあアメリカのメジャーじゃないですね、マイナークラスでもって、スペインだとか、
それからアメリオハイオ州クレイムランドの、ええ、そこのチームに入ってね。
だから、本質はバスケットボール選手なんですね。 それから彼の趣味は面白いんですよね、ウェイトリフティング。だから上半身ごついでしょ。
それから彼の先生はジョージハミルトン、あの昔のアパッチですね、彼に弟子入りしてですね、 こういうまあ、キャリアはグリーンボーイですけど、 まあ今になったわけです。キャリアは大体2年ぐらいですかね。まぁWCWにしては二番手くらいになっちゃいますよね。 でもグレートOZってことで一応売り出しましたけどねぇ。」

 

⑤ ※本音をいってしまいました

武藤「巌流島は大変だったんでしょ?」
マサ「大変じゃないよ。お前もプロレスラーならわかるだろ!」 

 

⑥ ※素で話をしていますね

辻「そんなことよりもねぇ、この山崎一夫感情がもう前面に出てしまっていますねぇ。」
マサ「まぁ。山崎選手はねぇ、いつも冷静ですよ。彼はなかなかね、頭のいい選手でも
ってね、よく見てますよね。まあそうね、インタビューなんかしてもね、ものを選んでしゃ べりますよ。なかなかスマートな男ですよね。」

 

⑦ ※マスクマンですよ・・・
マサ「このブラックタイガー、ペガサス、それからうちのライガー、“松田”とか保永とか、
この四人ですか、五人ですか、これは最高級のテクニック持っていますよ。」 


マサ「ここのコンクリートのところ、山田が昨日…あ。ライガーが頭ぶつけてたんこぶできてましたからね。」

⑧ フォローお願いします・・・

辻「マサさん、天龍を倒す方法ってないんですかねぇ・・・?」
マサ「んー。倒して、グラウンドに持ち込めばいいんですけどね、
でも木村選手はそういうのは出来ませんしねぇ」
辻「……」

 

といった、コミカルな解説がファンを沸かせたのも記憶にあるのではないでしょうか?

コミカルな一方でバックドロップやタックルに関しては非常深い解説をされていたり、

プロレスラーであれば、といった表現も多々ありました。これはプロとした観客に対してしっかりとしたプロレスを見せるといった、マサ齋藤選手のこだわりを解説でも現れていたのはリングを離れてもかわらないプロ魂にみえました。

 

マサ齋藤選手の解説については新日本プロレスの動画をみていただくと90年代半ばから後半までは非常おおくありますのでご欄頂くと非常に楽しいかと思います。プロレスが倍に楽しくなります!!

プロレスの豆知識・ネタをご紹介(マサ斎藤)

本日はプロレスの豆知識・ネタをご紹介します。
今回のテーマはマサ斎藤です。

 

本日は私が一番大好きなプロレスラーでもあるマサ齋藤選手のご紹介をさせていただききます。以前にも大日本プロレスとの抗争でもご紹介しましたが、この選手はエピソードが沢山あります。

 

おそらく、マサ齋藤選手に関しては連続で投稿したいと思います。それはプロレスラーのマサ齋藤選手と解説者としてのマサ齋藤選手です。

 

今回は選手としてのマサ齋藤選手をご紹介します。

マサ齋藤選手といえば地獄の門番や戦うネロンガと言った様々な異名を持った選手でもあります。アマレス出身だけあって、筋肉ムキムキな一方でレスリングテクニックは非常に高いレベルをもっています。見た目とは裏腹にカルピスをこよなく愛しており、マンガ、ろくでなしBLUESではイメージ近藤先生のイメージキャラクター(ニックネーム)にもなっていました。

 

マサ齋藤選手の魅力をお伝えする前にいつもどおりwiki情報のご紹介です。

 

<オリンピック出場>
明治大学在学中の1963年、レスリン全日本選手権にて、フリースタイル、グレコローマンの両ヘビー級で優勝。翌1964年、日本代表として東京オリンピックに出場

<プロレスデビュー>
大学卒業後の1965年4月に日本プロレスに入門。同年6月3日に、高崎山猿吉戦でデビュー。
翌1966年6月、日本プロレスを離脱し、豊登が興した東京プロレスに参加する。
しかし、東京プロレスは翌年あえなく崩壊、猪木らを除く大半の所属レスラーは国際プロレスに移籍するが、
斎藤は渡米を選択し、フリーランスの一匹狼の道を歩むこととなった。

アメリカへ>
アメリカではミスター・サイトー(Mr. Saito)またはマサ・サイトー(Masa Saito)をリングネームに、一貫してヒールのポジションで活動。
レスリングの地力を下敷きにした悪党ファイトが高評価を受け、西海岸で長くトップヒールとして活躍した。

日本では1972年3月、5年ぶりに帰国して古巣の日本プロレスに出場した後、1974年4月からは新日本プロレスに日本側の助っ人として断続的に参戦。
明大の同期である坂口征二ともタッグを組んだが、1978年暮れにヒロ・マツダ上田馬之助サンダー杉山らとフリーランサー同士によるユニット「狼軍団」を結成し、
日本でもヒールに転向。マツダとのタッグで坂口&ストロング小林から北米タッグ王座を奪取し、日本での初戴冠を果たした。また、同時期には上田と共に国際プロレスにも参戦している。
その後1980年初めまで、新日本プロレスでは外国人サイドの参謀格を務めた。

<維新軍参加と服役>
1983年からは長州力キラー・カーンとのユニット「革命軍」を経て、長州が結成した「維新軍」(後のジャパンプロレス)の参謀格となって活躍。
猪木や藤波辰巳ら新日本正規軍との軍団抗争に臨んだ。1985年1月には1シリーズだけだが全日本プロレスへ参戦、ジャンボ鶴田天龍源一郎と対戦している[3]。

しかし、1984年4月にウィスコンシン州ケン・パテラが起こした器物損壊事件(パテラは「偶然訪れたマクドナルドで、
その店を解雇されたことを恨んだ元従業員による投石があった際にその場に居合わせただけ」と主張)の逮捕劇に巻き込まれ、
宿泊先で斎藤と同室だったパテラを逮捕しようと部屋に押し入った警官数人をなぎ倒してしまったため、1985年6月より現地で1年半の刑務所暮らしを送った。
自身はこれを休息期間と考え、刑務所内で肉体改造に成功。のちに監獄固めという技を開発した。1986年末に出所し、1987年3月に日本帰国。

<巌流島>
1987年10月4日、巌流島で行われた猪木との時間無制限ノーレフェリー・ノールール・無観客マッチは「巌流島の戦い」と呼ばれ、2時間5分14秒の死闘を繰り広げた。
その後たけしプロレス軍団に参謀役という形で参加。1990年2月10日、東京ドームでラリー・ズビスコを破りAWA世界ヘビー級王座を獲得。
2カ月後にアメリカのセントポールにてズビスコに奪還されたものの、47歳での戴冠劇は快挙と称えられた。

<引退>
第一線を退いた後はワールドプロレスリングの解説者を務め、初期にはインタビュアーを兼任することもあった。
1999年2月14日、日本武道館において自らが発掘したスコット・ノートン引退試合を行った。この引退試合でも巨体のノートンをバックドロップで投げるなど往年のパワーを見せつけた。
後に、WJ、健介オフィスにて活躍後、2018年7月14日1時5分、パーキンソン病のため死去。75歳没。

 

マサ齋藤選手といえば、やはりインパクトがあったのはアメリカでの服役ではないでしょうか?マサ齋藤選手の得意の技といえば、監獄固めですが、まさに服役中に開発というのがなんともマサ齋藤選手の人生をあらわしているのではないでしょうか?

技といえばマサ齋藤選手はなんといってもバックドロップでしたね。解説でもバックドロップになると細かくかけ方に対して解説をしていました。実際にマサ齋藤選手のバックドロップはへそで投げるバックドロップを強調していました。実際に相手の腰をがっちり掴み、投げきるまでしっかりロックをするといったバックドロップのお手本ともいってよいきれいなバックドロップでした。

そして、レスリングはさることながら、ファイトスタイルは「Go for broke」(当たって砕けろの信条に基づき相手の攻撃を真正面から受けてラリアットや投げといった、パワーファイトは非常に試合を盛り上げていただきました。これは引退まで変わることなく、続けました。

 

そして、マサ齋藤選手を紹介する上で外せない試合があります。それは引退試合です。

アメリカ生活が長いため、マサ齋藤選手といえば外国スタイルと外国人選手との交流です。

マサ齋藤選手の引退試合についてご紹介させていただくと、1999年2月14日の日本武道館にて自身が発掘した弟子、スコット・ノートンと対戦をしました。全盛期を彷彿とさせるバックドロップは最後まで会場を沸かせました。試合には負けてしまいましたが、ノートンも手を抜かず、その攻撃を正面から受けたマサ齋藤選手はまさに最後まで信条を通したマサ齋藤選手の全てを出した試合でもありました。

 

ここでいつもの通り私の注目したポイントがあります。

それは、引退後のバックヤードのインタビューです。当時、新日本プロレスを沸かしていた外人選手に注目しました。それは、ドンフライ選手です。新日本プロレスに参戦いらい大暴れをして、観客からはブーイングも飛んでいましたが、インタビュー中にフライが現れて、「マサさんコングラッチューレション」といって去っていく約10秒程でしたが、暴れん坊のドンフライでもマサ齋藤選手には敬意をしめしたいように移りました。試合以外のフライ選手の違った顔がみれたシーンにはマサ齋藤選手の新日本プロレスでの外人選手の渉外の柱になっていた事がよくわかります。また、引退試合を2月14日のバレンタインに設定したのも非常にアメリカンな考えにも見えました。

 

マサ齋藤選手を語り始めると、収拾がつかなくなってしまいますので、今回はここまでに致します。

次回はマサ齋藤選手の解説編をご紹介します。

プロレスの豆知識・ネタをご紹介(長州力)

本日はプロレスの豆知識・ネタをご紹介します。
今回のテーマは長州力です。

 

長州選手といえば現在はテレビ番組などでも出演多数で、滑舌をいじられるなどのキャラクターで見られるケースがございますが、プロレスを見ている立場からすると、これは長州選手ではない・・・と感じてしまいます。

 

長州選手といえば、専修大学→オリンピック→新日本プロレスジャパンプロレス全日本プロレス新日本プロレスなど色々な経歴をもっており、名言も様々ございます。

 

私の主観のご紹介の前に毎度おなじみのwiki情報のご紹介です。

今回は要約でご紹介します。

 

<生い立ち>
1951年12月3日、山口県徳山市で四人兄弟の末っ子として生まれる、
山口県桜ケ丘高校のレスリング部に特待生として進学。レスリングに打ち込み、3年生の1969年にはインターハイの73kg級で準優勝、長崎国体のフリースタイル75kg以上級で優勝する。アマレス強豪校の専修大学商学部に特待生として入学する。

 

<オリンピック出場とプロレス入り>
専修大学レスリング部では大学3年の1972年、在日大韓体育会を介してミュンヘンオリンピック韓国レスリング代表に選ばれる。
大学4年でキャプテンとなり、1973年の全日本選手権ではフリースタイルとグレコローマンの100kg級で優勝した。新日本プロレス新間寿営業本部長にスカウトされ、
1974年に新日本プロレスへ入団。ミュンヘン五輪グレコローマン100kg以上級に出場し、1年前に全日本プロレス入りした鶴田友美と同じく「アマレスエリートのプロレス転向」という道を辿ることになる。

<雌伏の時代>
1974年8月8日、日大講堂でのエル・グレコ戦でデビューを果たし、サソリ固めで勝利を飾る。
その後すぐに海外武者修行に出され、ヨーロッパや北米を転戦。デビューから間もない1974年秋には、当時の西ドイツにてローラン・ボックやミル・マスカラスとも対戦(いずれも敗退)。
1975年からはアメリカ合衆国本土に入り、ヒロ・マツダが本拠地としていたNWAフロリダ地区で活動。ダニー・ホッジ、クリス・マルコフ、バロン・シクルナ、ボブ・アームストロング、
若手時代のボブ・バックランドやランディ・サベージ(ザ・スパイダー)などと対戦。

デビュー時のリングネームは日本名の吉田光雄であったが、海外武者修行から帰国後の1977年4月より、故郷長門国の別名である長州にちなんで長州力と改名。
改名後もアントニオ猪木のパートナーに起用されてTV中継試合のメインイベントに出場するなど、活躍の機会は与えられていたが、華やかさに欠け無骨な長州は人気が上がらず、
精悍で女性や子供受けするジュニアヘビー級藤波辰巳木村健吾の後塵を拝す。


<「かませ犬発言」から「革命戦士」へ>
ワールドプロレスリング』(テレビ朝日)の視聴率が20%を超えるという「新日ブーム」で沸く1982年に入ると、藤波辰巳との抗争劇で一躍ブレイク。
メキシコ遠征から帰国後、それまでの短髪パーマからストレートの長髪にイメージチェンジした長州は「革命戦士」のニックネームとともに時代の寵児となる。

ブレイクの発端となったのは「藤波、俺はお前の噛ませ犬じゃない」という発言だが、長州が実際に発した言葉は「なんで(入場の際に)
オレ(長州)がオマエ(藤波)の前を歩かなきゃいけないんだ、なんで(メキシコで当時実力No.1のカネックを破り、UWA世界ヘビー級王座を奪取してきた)
オレ(長州)がオマエ(藤波)の前にコールされなきゃいけないんだ」であった。格下が先に入場し先にリングアナウンサーに紹介されるのが業界の慣わしである。

<ジャパンプロレス旗揚げ - 全日本プロレス参戦>
1984年9月21日をもって長州ら維新軍は新日本プロレスを退社。その後、ジャパンプロレスを旗揚げし、維新軍に所属するレスラーを率いて戦場を全日本プロレスへと移すという新日本に対して最初の造反を行う。

1987年2月から全日本のシリーズを欠場し、そのまま新日本に復帰。契約問題で馬場および日本テレビと揉め大騒動に発展した。これによりジャパンプロレスは崩壊。
また、長州のスタイルに強い影響を受けた天龍は、長州離脱後の全日本マットで激しいプロレスを展開し、後の四天王プロレスのスタイルの礎を築いた。

<新日本プロレス復帰 - 現場監督就任>
1986年ごろからインタビューやマイクで藤波の名を口にし、古巣へのカムバックを実現して次第にアントニオ猪木藤波辰巳などと抗争が始まった。


長州は1988年7月にアントニオ猪木から念願のフォール勝ちを奪い、名実共に新日本マットの中心となった。そして現場監督として猪木が一線を退いた後の団体を取り仕切り、
因縁浅からぬUWFインターナショナルとの抗争を主導し、平和のための平壌国際体育・文化祝典で生じた赤字を埋めることに成功する。しかし、その後は愛弟子の佐々木健介
他団体の天龍源一郎を重用する等の私情優先とも取れる経営も見られ西村修などの一部新日選手に長州を嫌う傾向が出始める。

1998年1月4日の東京ドーム大会で引退。引退試合藤田和之吉江豊高岩竜一飯塚高史獣神サンダー・ライガーの5人掛けであった。
(藤田、吉江、高岩、ライガーに勝利。飯塚に敗北。)引退後、長州力のリングネームは愛弟子の佐々木健介が襲名するという話が持ち上がるも実現せず[22]、
引退前は現役復帰を完全否定していたにもかかわらず大仁田厚の参戦・挑発に乗る形で2000年7月に現役復帰した。

 

以降のWJなどございますが、本日はここまでの紹介とさせていただきます。

 

いつもながらですが、私が思う長州選手と名試合についてご紹介したいと思います。

先にも記載しましたが、長州選手は非常に名言の多い選手でもあります。やはり注目すべきは、噛ませ犬発言ではないでしょうか?

これの発言を聞くといつも頭に?が浮かびます。

藤波選手といえば中学卒業後、就職→新日本プロレス入門→武者修行・ドラゴンブームなどを経験しております。まさにコツコツを地道にスター街道を駆け上がった選手なのでは?と思っております。一方で長州選手は大学入学→オリンピック出場→新日本プロレス入団→武者修行といったプロレスで言えばスター街道を進んでいるように感じます。その選手が、地道な道を歩んできた選手にむけてのかませ犬発言をするのは??と思っています。私が思うに長州選手は非常にマーケティングがうまい選手なのでは?とも思ってしまいます。もちろんがガチなプロレスラーでもありますが、合宿はサイパンでトレーニングをして黒くなって帰ってくるなど、行動一つ一つがインパクトがあるため、どんな時代でも実力含めて輝いていたのではと感じます。

 

そして長州選手の注目すべき試合は私は大仁田選手との有刺鉄線電流爆破の試合と思っています。この試合は引退した長州選手の復帰戦でもあり、入場ではパワーホール+歓声が横浜アリーナを包み込みました。

結果は長州選手のサソリ固めでレフェリーストップとなりました。

さて、私がこの試合を注目した理由ですが、それは長州選手のストロングスタイルのプロレスです。長州選手はガチガチのプロレスラーです。試合スタイルも安生選手との試合でもプロレススタイルを貫いていました。今回の試合でも同様です。大仁田選手の主戦場の有刺鉄線マッチであっても自分のスタイルを崩さずに試合を展開、プロレスラーならではのロープワークを有刺鉄線でも関係なく使ってラリアットを繰り出すなど、非常に長州選手の魅力がでた試合だと感じました。

ネット上なども流れている試合でもありますので是非お時間ある際にご覧くださいませ。

 

 

 

競馬の豆知識・ネタをご紹介(2018年度代表馬)

本日はプロレスの豆知識・ネタをご紹介します。
今回のテーマは2018年度代表馬です。

 

先日、2018年の代表馬が決定しましたね。

競馬をご覧になる皆様であれば、気になるところではあったかと思います。

年度代表馬は文句なしのアーモンドアイでしたね。

牝馬三冠とJCをとったのはジェンテルドンナ以来でしたね。

それにしても去年の3歳馬はかなりの成績を残した印象があります。去年は最強4歳世代といわれていますが、4歳世代を抜いた印象があります。

ちなみに結果は下記でした。※数字は得票数

===================================

最優秀2歳牡馬 アドマイヤマーズ 153 サートゥルナーリア 123

最優秀3歳牡馬 ブラストワンピース 114  ワグネリアン 88  ルヴァンスレーヴ69 エポカドーロ 3 ステルヴィオ 1

最優秀4歳以上牡馬 レイデオロ 212  ファインニードル 45 ミッキーロケット 4  レインボーライン 3  ゴールドドリーム 2

===================================

最後まで3歳牡馬はわかりませんでしたが、ダービーが注目を浴びる中で、有馬記念新潟記念古馬を破った、ブラストワンピースが結果的に最優秀3歳牡馬になりましたね。先輩社員に新卒社員に営業成績で勝ってしまったみたいな感じですね。

 

といった結果はでましたが、いつものように個人主観を書き綴りたいと思います。

個人的に今年の注目したレース結果はマイルチャンピオンSでした。

というのも、ルメール騎手が皐月、ダービー、毎日王冠と騎乗しましたが、1着には恵まれずというなかで、古馬相手に皐月馬のアルアイン、安田馬のモズアスコット、昨年のマイルCS制覇のペルシアンナイトを破ってのマイルCS制覇が非常に印象が深かったです。そして騎乗がビュイック騎手がまさかくるか?といった印象が非常に大きかったです。

 

そういった意味で言うと、先程、記載しましたように3歳馬が古馬を破るというのは、世代交代でもあり、新しい時代を切り開いていくといった、現代社会を物語っているようにもみえました。

 

そして、個人的にはファインニードルがG1を二つ取ったにも関わらず、優秀馬になれなかったのは、日本ではまだまだ短距離は扱いが低いなかなぁという気持ちにもなりました。

 

と思ってしまった。代表馬、優秀馬でした。

 

プロレスの豆知識・ネタをご紹介(三沢光晴)  

本日はプロレスの豆知識・ネタをご紹介します。
今回のテーマは三沢光晴です。 

三沢選手のイメージは二代目タイガーマスク、、タイガードライバー、エメラルドフロージョン、エルボーなどなど、観客を沸かせる美技を披露する一方、私生活では下ネタが大好きといった、リングとは違ったキャラクターでも有名でしたね。

 

いつもの通り簡単にwiki情報でのご紹介です。

 

<全日本プロレス入門>
高校卒業後の1981年3月27日、全日本プロレスに入団。同年8月21日に浦和競馬場正門前駐車場で行われた越中詩郎戦でデビューした。
入門から5か月でのデビューは全日本プロレス史上最速であった。

<タイガーマスク(2代目)として活躍>
1984年春、三沢は越中詩郎とともにメキシコへ遠征に出た。数か月が経ったある日、三沢は馬場に国際電話で「コーナーポストに飛び乗れるか」と問われ、
飛び乗れると答えたところ帰国するよう命じられた。帰国後、三沢は馬場に2代目タイガーマスクとなるよう命令を受ける。

<超世代軍とプロレス四天王の中心として活躍>
1990年春、天龍源一郎全日本プロレスを退団しSWSへ移籍、複数のプロレスラーが天龍に追随した(SWS騒動)。この騒動により、全日本プロレスは天龍対鶴田という当時の黄金カードを失うことになった。騒動の最中の5月14日、三沢は試合中にタイガーマスクのマスクを脱ぎ、三沢光晴に戻ると同時にポスト天龍に名乗りを挙げた。
三沢は川田利明、小橋健太らとともに超世代軍を結成。1990年6月8日に「全日の『強さ』の象徴だった」ジャンボ鶴田とのシングルマッチで勝利を収め、1992年8月22日にはスタン・ハンセンを破って三冠ヘビー級王座を獲得するなど、
超世代軍の中心レスラーとして活躍した。超世代軍とジャンボ鶴田を中心とする鶴田軍との世代抗争は全日本プロレスの新たな名物カードとなった。

1992年7月にジャンボ鶴田が内臓疾患により長期休養を余儀なくされたことにより超世代軍と鶴田軍の抗争は終わりを告げ、
同時に三沢は全日本プロレスの実質的なエースとなった。超世代軍の活動は1993年に川田が離脱したことで区切りを迎え(正式に解散したのは1998年)、
それ以降は小橋・川田・田上明とともにプロレス四天王(後に秋山準が加わり「五強」と呼ばれた)の一人として全日本プロレスの中心を担った。
三沢は1992年8月から1999年10月にかけて三冠統一ヘビー級王座を5度獲得、21度防衛。1994年3月5日には全日本プロレスの象徴的存在であった
ジャイアント馬場からタッグマッチでフォール勝ちし、名実ともに同団体を代表するレスラーとなった。

超世代軍が結成された当時、馬場は凶器攻撃、流血、リングアウト・反則・ギブアップによる決着のない、3カウントによってのみ決着するプロレスを理想としていた。


後にジャイアント馬場の死後、全日本プロレス社長→NOAHの旗揚げとキャリアを築いていきました。

 

三沢選手を今回一回で語るのは難しいので、本日は全日本プロレスまでとさせていただきました。

さて、ここからがいつものように私の個人的な視点で書き綴ってみます。

冒頭に記載をした三沢選手といえば数々の技を披露されてきましたが、一方で受身の天才でもありました。ジャーマンスープレックスを受身をとって、すぐさまカウンターエルボーを打つタイミングはまさに美技です。ぜひ、検索をしてみてください!!

 

そして、今回ご紹介したいのはタイガードライバーです。

えっ??知っているよと思った方もいると思いますが、私が紹介したいはエプロンから

の断崖式タイガードライバーです。1998年10月の小橋選手と試合での印象が非常に大きいです。馬場さんの激しいプロレス、四天王プロレスを象徴しています。タイガードライバー91が決め技にならない状況でだしたあの技はインパクトが強すぎました。それを受けて戦い続けた小橋選手もかなりですが。。

 

話をまとめさせていただけますと、ジャンボ鶴田選手から世代交代をして、そこからエースとして活躍した三沢選手はやはり馬場イズムを受け継いでいたのではないでしょうか?そして前にも書きましたが、やはり一言!

 

四天王プロレスだけは真似してはいけません!!

 

 

プロレスの豆知識・ネタをご紹介(破壊王 橋本真也)

本日はプロレスの豆知識・ネタをご紹介します。
今回のテーマは破壊王 橋本真也です。

 

 武藤選手、蝶野選手ときたら忘れてはいけない、橋本選手をご紹介します。

三銃士の最後の一人であり破壊王の異名をもつ橋本選手はご存知の通り、キック、袈裟切り、DDTを武器としたまさに相手が破壊されるのではないか?といわれる位の破壊力をもった技で数々の相手を葬ってまいりました。

その中でも本日の見所は1998年です。

 

橋本選手といえばミスターIWGPともよばれていました。

本日はwiki情報ですが、簡単にミスターIWGPを紹介します。

 

ミスターIWGP橋本選手は1996年(平成8年)4月29日東京ドーム、この年の1月4日に武藤に勝利してIWGPヘビー級王座を奪取したUWFインターナショナルUインター)の総大将である高田延彦と対戦し、垂直落下式DDTからの三角絞めで勝利。1997年(平成9年)8月31日、この年のG1 CLIMAX優勝者である佐々木健介に敗れ、IWGPヘビー級王座を奪われて以降、橋本がIWGPヘビー級王座につくことはなかったが通算20度の防衛を果たした。

 

橋本選手の姿をイメージする方は花道を第二代IWGPのベルトを持って入場するシーンが印象あるのではないでしょうか?私は闘魂伝承のガウンとIWGPのベルトが非常に印象的なのを覚えています。

 

話が少し飛びましたがいつもどおり経歴紹介です。

 

新日本プロレス入団>
アントニオ猪木に憧れ、1984年(昭和59年)4月に新日本プロレスに入門。1984年(昭和59年)9月1日に後藤達俊戦でデビュー。

1987年(昭和62年)、第3回ヤングライオン杯での準優勝後に海外修行に出た。
対戦相手を負傷させたりしたために試合を干されることもあった。

 

闘魂三銃士結成>
海外修行の後に帰国し、闘魂三銃士として武藤敬司、蝶野と共に売り出されることになり、対戦相手をリング上で叩き潰す姿から『破壊王』の異名を持つこととなった。

外国人巨漢レスラーの得意技を正面で受け、好勝負を展開していた。
橋本は日本人レスラーとしては稀なスーパーヘビー級であるが、この階級のレスラーが得意技にすることが多いラリアットパワーボムをほとんど使用せず、あんこ型でありながらキック主体というスタイルだった。

1993年(平成5年)、橋本は前年にグレート・ムタとしてIWGPヘビー級王座を獲得した武藤やG1 CLIMAX2連覇を果たした蝶野と比べ、停滞気味であったがWARの天龍源一郎と2度のシングルマッチを経て勢いを付け、9月20日、ムタを破り第14代IWGPヘビー級王者となった。その後、藤波に敗れてIWGPヘビー級王座を一度手放すものの、直後の5月1日福岡ドームのメインイベントで藤波を破って王者に返り咲き
(1年後の1995年(平成7年)5月3日福岡ドームで武藤に敗れたものの、9度の当時連続防衛記録を達成)、その年の活躍が認められ「プロレス大賞MVP」を獲得した。

 

以降は小川直也との抗争そして新日本プロレス解雇 →プロレスリンZERO-ONE旗揚げ→小川と和解してZERO-ONEにて共闘→三冠ヘビー級王座奪取、長州力との決戦 - ハッスル参戦→プロレスリンZERO-ONE崩壊、闘病 →40歳での死去

 

小川選手との抗争などはまた別の機会にご紹介をいたしますので、本日は途中までのご紹介させていただきます。

 

経歴情報にも記載をさせて頂きましたが、橋本選手を語るうえで私は2点あると思っています。ひとつはG1クライマックス、もうひとつは、パワーファイトです。

 

前述の通りIWGPは獲得していたものの、G1クライマックスはまさに鬼門でした。なかなか優勝に恵まれず、1998年に初の制覇をします。※優勝はこの一回です。

そして、前述の通り、パワーファイトも特徴があります。ノートン選手、ベイダー選手のようなパワーファイトではなく、キック主体の試合展開をして最後はDDTで試合を締める展開が多かったです。決め技は方エビ固めや三角締めが多かったですね。

 

もうお気づきの方もいらっしゃるかもしれませんが、、、

1998年、G1、パワーファイトとくれば、本日紹介をしたいのは、1998年のG1クライマックスの決勝です。橋本選手vs山崎選手の激突でしたね。

橋本選手は天龍選手を山崎選手は蝶野、武藤、藤波選手をやぶって勢いにのっていました。フィニッシュの前に、もう一点の魅力ですが、山崎選手は橋本選手の蹴りを受けつつも、試合終盤で足をキャッチして裏アキレス腱にもっていくシーンがあります。このシーンを見た方はさすが山ちゃんUWF!笑と感じるかもしれません。このシーンも非常に好きでした。

 

さて、本題ですが、やはり橋本選手らしいフィニッシュだったのが、この試合だったのではないでしょうか?

山崎選手の関節に耐えて、裏DDT、ダイビングエルボー、ミドルキック、垂直落下式DDTとでフィニッシュでしたが、橋本選手はフィニッシュの際にはミドルキックを二発放って、ロープに走ってとどめのミドルを放ちます。※闘魂列伝でがんばってもできませんでした。

そして、なんと言っても垂直落下式DDTです、ほかの試合に比べてこの試合の確度はやばいです!!!バーニングハンマー超えます!危険度マックスです。最後の腰の落とし方がすべるように落ちていくのでダメージは半端ないです!

ですが、パワーファイターのようで、パワーファイトに見えない、まさに、破壊!の言葉をあらわす試合でもありました。

ですが、受けや山崎選手が一番心配でしたが。。

 

 

プロレスの豆知識・ネタをご紹介(蝶野正洋) 

本日はプロレスの豆知識・ネタをご紹介します。
今回のテーマは蝶野正洋です。

 

今回は大晦日ガキの使いで定番になりつつある、ビンタでおなじみの蝶野正洋のご紹介です。

 

前回同様に蝶野選手を簡単にWikipedia情報でご紹介します。

 

蝶野選手は愛媛県出身で大手製紙会社の会社員であった父親の赴任先であるアメリカ合衆国ワシントン州シアトルで生まれ、2歳半で帰国し、神奈川県川崎市多摩区、東京都渋谷区、三鷹市で過ごす。目黒区たちばな幼稚園、渋谷区立猿楽小学校、三鷹市立北野小学校、三鷹市立第五中学校、三鷹第六中学校、東京都立永山高等学校卒業。神奈川大学は入学式の出席のみ、籍を置いたままの入門、後に中退した。同年新日本プロレスに入門している。サッカーは小中高を通して励んだ、大のサッカーファン。中高時代は、不良行為をはたらいたこともあった。

獲得タイトルはNWA、IWGPG1クライマックスなどをとっております。

G1クライマックスは最多の5回の優勝をしております。これだけで賞金5000万円。。

 

蝶野選手といえば、武藤選手と違い、所属は新日本プロレスに長年在籍をしておりしまいた。蝶野選手といえば、黒のカリスマと呼ばれていますが、もともと闘魂三銃士では一番目立たない存在でした。くすぶっている中で1991年に開催されたG1クライマックス優勝から一気にスター街道へ!第2回、4回も優勝したのちにヒールターンをして黒のカリスマとなりnWo Japanのリーダーとなりさらに知名度をあげていきました。

 

そんな中、私がいだく蝶野選手とは??をご紹介します。

蝶野選手へいだくイメージはずばりギブアップです!

えっ?ギブアップと思った方もいると思いますが、蝶野選手といえばケンカキックが代表的な技でもありますが、そのほかといえば、2つあります。

STFと羽根織固めです。橋本選手のように大胆な投げ技がない一方でテクニックで試合をカバーして、最後は相手かギブアップをとるといった特徴があります。

パワーファイトであれば、基本的に投げや打撃から片エビ固めや体固めでフィニッシュですが、ヒール、ケンカキックなど盛り上げる試合をしつつも、フィニッシュはこだわりのSTFや羽根折り固めでフィニッシュを飾る盛り上げるプロレスとテクニックで締めるプロレスをできる黒のカリスマ選手の試合をぜひ機会があればご覧ください。