プロレスの豆知識・ネタをご紹介(マサ斎藤)

本日はプロレスの豆知識・ネタをご紹介します。
今回のテーマはマサ斎藤です。

 

本日は私が一番大好きなプロレスラーでもあるマサ齋藤選手のご紹介をさせていただききます。以前にも大日本プロレスとの抗争でもご紹介しましたが、この選手はエピソードが沢山あります。

 

おそらく、マサ齋藤選手に関しては連続で投稿したいと思います。それはプロレスラーのマサ齋藤選手と解説者としてのマサ齋藤選手です。

 

今回は選手としてのマサ齋藤選手をご紹介します。

マサ齋藤選手といえば地獄の門番や戦うネロンガと言った様々な異名を持った選手でもあります。アマレス出身だけあって、筋肉ムキムキな一方でレスリングテクニックは非常に高いレベルをもっています。見た目とは裏腹にカルピスをこよなく愛しており、マンガ、ろくでなしBLUESではイメージ近藤先生のイメージキャラクター(ニックネーム)にもなっていました。

 

マサ齋藤選手の魅力をお伝えする前にいつもどおりwiki情報のご紹介です。

 

<オリンピック出場>
明治大学在学中の1963年、レスリン全日本選手権にて、フリースタイル、グレコローマンの両ヘビー級で優勝。翌1964年、日本代表として東京オリンピックに出場

<プロレスデビュー>
大学卒業後の1965年4月に日本プロレスに入門。同年6月3日に、高崎山猿吉戦でデビュー。
翌1966年6月、日本プロレスを離脱し、豊登が興した東京プロレスに参加する。
しかし、東京プロレスは翌年あえなく崩壊、猪木らを除く大半の所属レスラーは国際プロレスに移籍するが、
斎藤は渡米を選択し、フリーランスの一匹狼の道を歩むこととなった。

アメリカへ>
アメリカではミスター・サイトー(Mr. Saito)またはマサ・サイトー(Masa Saito)をリングネームに、一貫してヒールのポジションで活動。
レスリングの地力を下敷きにした悪党ファイトが高評価を受け、西海岸で長くトップヒールとして活躍した。

日本では1972年3月、5年ぶりに帰国して古巣の日本プロレスに出場した後、1974年4月からは新日本プロレスに日本側の助っ人として断続的に参戦。
明大の同期である坂口征二ともタッグを組んだが、1978年暮れにヒロ・マツダ上田馬之助サンダー杉山らとフリーランサー同士によるユニット「狼軍団」を結成し、
日本でもヒールに転向。マツダとのタッグで坂口&ストロング小林から北米タッグ王座を奪取し、日本での初戴冠を果たした。また、同時期には上田と共に国際プロレスにも参戦している。
その後1980年初めまで、新日本プロレスでは外国人サイドの参謀格を務めた。

<維新軍参加と服役>
1983年からは長州力キラー・カーンとのユニット「革命軍」を経て、長州が結成した「維新軍」(後のジャパンプロレス)の参謀格となって活躍。
猪木や藤波辰巳ら新日本正規軍との軍団抗争に臨んだ。1985年1月には1シリーズだけだが全日本プロレスへ参戦、ジャンボ鶴田天龍源一郎と対戦している[3]。

しかし、1984年4月にウィスコンシン州ケン・パテラが起こした器物損壊事件(パテラは「偶然訪れたマクドナルドで、
その店を解雇されたことを恨んだ元従業員による投石があった際にその場に居合わせただけ」と主張)の逮捕劇に巻き込まれ、
宿泊先で斎藤と同室だったパテラを逮捕しようと部屋に押し入った警官数人をなぎ倒してしまったため、1985年6月より現地で1年半の刑務所暮らしを送った。
自身はこれを休息期間と考え、刑務所内で肉体改造に成功。のちに監獄固めという技を開発した。1986年末に出所し、1987年3月に日本帰国。

<巌流島>
1987年10月4日、巌流島で行われた猪木との時間無制限ノーレフェリー・ノールール・無観客マッチは「巌流島の戦い」と呼ばれ、2時間5分14秒の死闘を繰り広げた。
その後たけしプロレス軍団に参謀役という形で参加。1990年2月10日、東京ドームでラリー・ズビスコを破りAWA世界ヘビー級王座を獲得。
2カ月後にアメリカのセントポールにてズビスコに奪還されたものの、47歳での戴冠劇は快挙と称えられた。

<引退>
第一線を退いた後はワールドプロレスリングの解説者を務め、初期にはインタビュアーを兼任することもあった。
1999年2月14日、日本武道館において自らが発掘したスコット・ノートン引退試合を行った。この引退試合でも巨体のノートンをバックドロップで投げるなど往年のパワーを見せつけた。
後に、WJ、健介オフィスにて活躍後、2018年7月14日1時5分、パーキンソン病のため死去。75歳没。

 

マサ齋藤選手といえば、やはりインパクトがあったのはアメリカでの服役ではないでしょうか?マサ齋藤選手の得意の技といえば、監獄固めですが、まさに服役中に開発というのがなんともマサ齋藤選手の人生をあらわしているのではないでしょうか?

技といえばマサ齋藤選手はなんといってもバックドロップでしたね。解説でもバックドロップになると細かくかけ方に対して解説をしていました。実際にマサ齋藤選手のバックドロップはへそで投げるバックドロップを強調していました。実際に相手の腰をがっちり掴み、投げきるまでしっかりロックをするといったバックドロップのお手本ともいってよいきれいなバックドロップでした。

そして、レスリングはさることながら、ファイトスタイルは「Go for broke」(当たって砕けろの信条に基づき相手の攻撃を真正面から受けてラリアットや投げといった、パワーファイトは非常に試合を盛り上げていただきました。これは引退まで変わることなく、続けました。

 

そして、マサ齋藤選手を紹介する上で外せない試合があります。それは引退試合です。

アメリカ生活が長いため、マサ齋藤選手といえば外国スタイルと外国人選手との交流です。

マサ齋藤選手の引退試合についてご紹介させていただくと、1999年2月14日の日本武道館にて自身が発掘した弟子、スコット・ノートンと対戦をしました。全盛期を彷彿とさせるバックドロップは最後まで会場を沸かせました。試合には負けてしまいましたが、ノートンも手を抜かず、その攻撃を正面から受けたマサ齋藤選手はまさに最後まで信条を通したマサ齋藤選手の全てを出した試合でもありました。

 

ここでいつもの通り私の注目したポイントがあります。

それは、引退後のバックヤードのインタビューです。当時、新日本プロレスを沸かしていた外人選手に注目しました。それは、ドンフライ選手です。新日本プロレスに参戦いらい大暴れをして、観客からはブーイングも飛んでいましたが、インタビュー中にフライが現れて、「マサさんコングラッチューレション」といって去っていく約10秒程でしたが、暴れん坊のドンフライでもマサ齋藤選手には敬意をしめしたいように移りました。試合以外のフライ選手の違った顔がみれたシーンにはマサ齋藤選手の新日本プロレスでの外人選手の渉外の柱になっていた事がよくわかります。また、引退試合を2月14日のバレンタインに設定したのも非常にアメリカンな考えにも見えました。

 

マサ齋藤選手を語り始めると、収拾がつかなくなってしまいますので、今回はここまでに致します。

次回はマサ齋藤選手の解説編をご紹介します。